昭和40年12月09日 朝の御理解
神様にお喜び頂けれる心。神様に通う心と。それは真心真心を以ってとこう申します。この真心というのは、幾つもあるのではございません。真心とは一つ。いわゆる真心一心なんです。ね。真心は一つですけれども、同じではありません。皆。一人一人違うのです。あの人がああしよんなさるから、自分もこうすると言う様なもんじゃありません。だから真似は出来ません。真心というのは。
その一人一人に違うものであり、同時に真心とは一つだ。真心は一つけれども同じではない。そこにきりがない限りがない信心を思いますですね。例えばなら原さんと中村さんとこう並んでおられるが、中村さんの通りの事をが、真心だというても、原さんがそれを、なら真似されたからというて、それが真心ではない。真心とはどう言う様な心をその真心というのかと。ね。
それはね真心一心とは、氏子が神様へ向ける心なのですけれども、その心が「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と思いに思い、祈りに祈り、練りに練り、そして、そこに出てくる答が真心なのです。ですから私の真心と皆さんの真心はもちろん違うはずです。同じという事はありません。ですから今日私がこの真心が真心一心ですけれども、明日はまた違うかもしれません。
「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と練っておるうちに、これは間違うておったと気が付いたら、直していくその事が真心です。ね。
そこんところが分かるでしょうか。真心とは一つ。けれど一つだけれどもんなら、同じではないという事。ね。試作品が日々違わなければだめだという事。去年の真心と今年の真心は、いわばもう違うという事。ね、10年前から思うておる事が、今日もやっぱり同じという事はありえない。信心が成長していけば、成長して行くほどね、真心というものは、いよいよ垢抜けしたもの、いよいよ生粋な神様に通うものに育っていくというところに真心の、いわば信心が追求と、だから言うても良いわけなんです。ね。
真心添える、真心をもって生活をする。それは「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と、心に練りに練らせてもらうという事。そしてそこに出てきた答を真心というのである。ね。ですからある人から見たらそれは、真心でないように見える。かも知れない。見えるのが本当である。けれどもその人にとってはそれがもう、唯一の真心である。真心は一つだけれども同じではないという事。真心一心とはそう言う様な事。
だからこそ、神様はいわばどういう氏子、どういう人の上にも真心を以ってすればおかげが頂けれれると言うのがそれなんです。子供であろうがね、大人であろうが年寄りであろうが、ね、その氏子の真心を神様は受けて下さるのです。一つ真心の人にならせてもらうことを願いとし、ね、その真心を追求していく。そこんところに私は尊い生き方と、があると思う。真心のない一日。ね。実意のないいわば一日。いわばロクソナイ一日。これではいけませんですよね。
昨夜、青年部会がありましてから後でした。私はもうもう本当に神饌室を覗くという事はまずないです。夕べ私神饌室にちょっと用事があってから入った。ところがもう本当にもう、神饌室がいっぱいに乱れておる。ね。まあいうならば大盛台の上にまだお供えこれからしなければならない、お供え物の中に果物があったり乾物があったり、ね、お野菜が一緒んたくりにがばっとこぼしたといったような感じで置いてある。
先生方何人でも居る,毎日出たり入ったりして、毎日お掃除の時には必ず入って、どこをお掃除しよるじゃろうか、どこを整頓しよるだろうか。私は長男を呼んでから、まあその、「どう言う様な事か」と、「神饌室の乱れはどうした事か」と。「まだ善導寺に一年半修行させて頂いたが、善導寺あたりの神饌室をお前はどんな風に感じるか?」とね。立派な神饌室ではない。
けれども、そこには成程神様の調せんをする所だと。神様の例えていうならば調理場なのである。神様が召し上がるところのあそこは調理場である。同時にこちらのほうは、神饌室である。その出来上がったお膳部をあそこに置く所である。清めた上にも清めておかねばならん、ね。神様の方に使う例えば布巾一つでも、三方を拭くお布巾八足を拭くお布巾。御結界をお掃除させてもらうお布巾。お社を拭かせて頂くお布巾。
しかもそれが神様と霊神様の方の両方に分けてこうきちっとしてある。使った布巾は必ず洗ってまたかけとかなならん。もうその辺の乱れておる事、乱れておる事もう本当にね、ちいうごたる。例えば、乱れたいうならば調理場で使うた食べ物をどんなに美味しいものであっても、どへつとゆうようなもんですよ。神様の前に持ってはいけんと思う。そしたら、長男が申しますことに、ここにあの明渡と言う先生がしばらく修行いたしましたです。大阪の大変ごひれいの立つ教会の息子さんであった。
九州の信心を勉強したいというのでしばらく来ておりました。その明渡さんが、いわゆる明渡先生があー、長男に言われた事。「ここはもう本当にまあいうならば感心するところもあるけれども、ビックリする事がある」と。「もう神饌室の乱れておるのにビックリする」ち言うて、「お前は人からそげなこつ言われておってから、何故、それをんなら、ほんなこつそうだと気付かんか」と私は言うのです。
「もう、ここの先生方のもうろくそなかつに驚いた」ち言うてからその明渡が言いよったと、こう言う。「明渡が言いよったちそれでよいか」と。ね。例えば本当に成程、よい所もありゃ、悪い所もあると。ね、なら、悪いところを指摘されたのだから、せないかんじゃないかと。神様に向かってもですね、本当にあの、いわゆる「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」がです、ただ、それがそれならば良いです。
けれども、「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」とここを練ったあとが一つも見えないという事です。久留米の石橋先生なんかは、霊神様と神様とのお布巾がこうやって重なっておっただけでも喧しかったそうです。霊神様の御神飯器には、いちいちどの霊神様、この霊神様という風にしてあったそうです。内方はそんな事はありませんけれども。極端な事は、小倉の初代の桂先生なんかは、ね、
お便所に入られるのにです、必ずお帽子かぶってから、上から上っ張り着てから、お便所に入られたという事です。ね。これは私共です、ね、これは私は若い時からね、お商売を致しておりましたから、出掛けには必ず、口と手を私は洗うたり、濯いだりしてから自転車に乗りました。何故って、自転車の上で御祈念せんならん事がある、神様と言わなならん事があるからです。
皆さん神様にお参りされる時には、手口を濯いでからここに上がってみえるでしょう。心掛けなんです。ね。成程この神様はですその氏子の例えば、タイプで現れなさると申しましょうかねろくそなかなら、ろくそなかなりに現れますけれどもです、この神様はこげんでなければ受け付けんと仰る神様じゃないです。ね。もうその人なりですけれども、もうその人その人の真心をまあ受けなさるので御座いますけれどもです。
あぁではなかろうか、こうではなかろうかと、こげな事じゃお粗末ご無礼になるのじゃなかろうかと言う様なです、思いがそこにあればそれでいいのです。それが真心ですからそれでいいのです。私がとにかくいつもやかましく、神饌室をです、ようも、もうそれこそ、その、出たり入ったりしながら、これで平気でおれれる事だと。ね。私は、毎晩休ませて頂く時には必ずタオルを絞る。
おしぼりを必ず枕元において休みます。いつ、夜中に起きてから御祈念せんならんやら分かりません。ね。ですから、朝起きたら、床の中で御祈念を致しますから、目が覚めたらすぐ。だからその、あの、タオルをゆるくしぼっておりますから、それで顔を拭いてそしてから、いわば、床の間のほうに頭をおいておりますから、床の間に向かってから御祈念を致します。
御神前に出る時に手口も濯がんのようなろくそなこつでおかげが頂けるはずがない。ましてや御結界奉仕をさせて頂くものがです、ね、それこそ、自分の心を清める意味において手口を清めるくらいはなからなければ、ここに上がる事は出来ん。そんな事でございましたから、昨夜もそのことが私心にちょっと引っ掛かった。その明渡さんから指摘されたというその事が。
まあいうなら、「ここはうちあたりの良いところもあるばってん、神様に対してろくそなか」と。「ここの先生方がろくそなかと」と言う事を友達同士の心やすさで、長男にそれを言われたと。「何故、それを早く言わんかと。何故、そんならば指摘されたところを実行してから改めていかんか」と。これはもう本当にあの、よその教会の事はあんまり知りませんけれども、親教会でありませす。
善導寺の三井教会なんかは、それはもうきちっとした事です。神饌室に入ったら襟をたださなおられんごと、きちっとしてございます。ここは、そういう意味合いでですね、狭いという事と同時に本当にまあ、お供え物がいうなら本当に多すぎるぐらいあんまり沢山ありますもんですから、どうしてもろくそになる。けれども、心掛け次第ではもう本当に神様の御三方の上に乗せなければならない、かごが下のほうに置いてあったり。ね、
本当にこういう事では私は本当に銘々がおかげを頂かれん。明渡さんが恐らく私の事も含めて言うたのだろうと思う。「まあ親先生はしかたがない。ばってん他の先生達がもう、ちょいとろくそなか」というところまでおる。というのは私は神饌室に入る時に、決してあの覆面を、覆面をさせて頂く事を神様許されません。許されませんというか、覆面をするなと、何回お伺いしてもそうです。ね。
だからというて、他の先生方がする時に私はそれを絶対許しません。覆面もせずに神饌もんを扱うちゃならんと私は言う。だからその事も私は、また、夕べ改めてその明渡さんが恐らく、私が神饌物をさせて頂く時に覆面もなんもせん、先生方はしとるばってんここの親先生は「親先生はあれで良いけれども」と言ったような事も、それはまあ言い様であってから、「実際はもう第一親先生からがろくそなか。
神様の神饌をされるとに覆面もされん」という事であったろうと私は思うたから、その事をやっぱり気にかかって昨日、昨夜休ませて頂く前にその事を御祈念させて頂いた。「神様、例えば私は教える立場にある。あんたがた覆面もはめずに、という私が覆面をはめておらんという事はこれで本当に良いのでしょうか」と私は。そしたらですね、「信心、真心,神心」いつも御理解に頂くその事を頂く。ね。
信心とは信じる心、信じるとは真心。ここんところをまあいうならば卒業させて頂いてから、私の場合神心の所を、の稽古をさせて下さろうとしておるようですね。いわゆる、神と仲良うさせてもらう信心ぞという、そこにいきよるのです。ね、他人、他人したんじゃいかん。これはもう、私十何年間、覆面をする事を許されませんというよりも、覆面を取れ、覆面をするなと頂くんです。
というてなら、私のを見てからなら、いうなら、それを真似しちゃならんという事をいつも私は言うんですけれども、皆さん、だから、それはなさいます、もちろん神饌をする時、覆面もつけなならんような事を知っておられますから、まあ、おぼろげ自分の事は心にかからんで、つけているんです。先生が覆面をしなさらん、といったようなものをだから、もうここで先生方も感じていないでしょう。
何か神様のご都合がある事に違いないという風に思うておられるでしょう。 だから、知らん、明渡さんなんかがぽかぽかと来てから、ビックリしたでしょうね、私の覆面をしてないで、覆面をしないなりに神饌なんかを致しますから。けれども、それは意味が色々ある事でありましょう。いわゆる「信心真心神心?」という事を頂きますから。お互いが本当に信じる心を稽古させて頂いておる時。
本当に真心とは真心とはというそのそこに、信心の焦点を置いておる時には、これはもう絶対そうでなからなければならないという事ですよね。私は信心はいらんのか、いわゆる真心はいらんのか、信じる心はそれでよいのかというのではありませんけれども、まあその辺は私自身がよくまだ分かりません。そしたら神様からですね頂きます事が、「病的になるな」と神様から頂くのです。
これは私の知った先生ですけれどもね、もうその、いつもその、消毒、その、なんていうんですか、手を洗う時に、ある意味、いつも洗われる。もういつも洗っておられる。もう神様の前に出ると、お粗末になっちゃならん、それでもういつも、手は荒れどうしです。これなんかもう病的ですよね。その神意は私共は分かりません。分かりませんけれども、桂先生達の生き方もちょっと病的だと私は思うですね。
お便所においでなられるのにちょうど蜂蜜を取る時のあんな帽子を作っておられたそうですもんね。ちゃんと帽子を作ってある。上から衣のような物を作ってから、それを着てから、一々便所においでられた。ね、セッチン蝿が神様の前にでる自分の体についちゃあ神様にご無礼になるというところから、なさった事でございましょう。そこに、だからですね、やはりほどほどのものがいるという事。
何故って、汚いと言ったら人間の体ぐらい汚いものはありますまい。ね。不浄と言うたらこの位、不浄なものはありますまい。ね。やはり、教祖の神様が教えておられますようにです、ね、「道を歩いておろうが、はたけでこやしをかけておろうが、神の中を分けてとおりよるようなものじゃ」というところを、が、一つ本当に、体得し分からせて頂かなければならないと。
これは、勿体のうしてから、便所の中で拝まれんという事はないのです。ね。それからというて、便所に行って手も洗わんという事ではいけないという事。ね。この辺ところがです、私あの、頂かないかん。病的になってはならん。あまり、神経質になりすぎてはならん。そこにもやはり肥えをかけておろうが、というような、信心がだんだん体得されていかなければならん。というようにです。
例えば神饌室で調撰なさるのに、へどがでるような、ろくそなことをしては勿論なりません。そう言う様な事でもです、私共がいつも真心の追及をさせて頂いておればです「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか、こういう事ではお粗末ご無礼になるのではなかろうか」と、心の中に練っておればそう言う様な事が出来るはずがないです。ね。皆さん、自分のおかげを頂けばいい、ね。
そのおかげを頂く為にです、神様に対するところの思いとか、ね、その、こちらの心の姿勢だけではない、体の姿勢、態度というようなものもです。ね、だから、八足を拭かせて頂くのに、棚を拭く雑巾のようなもので、八足を拭いても、そんなら神様が、ああ汚か、とは仰るまいけれども、ね、そこは「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか、こうさせて頂かなければおられない」というのがです。
あんまりこうして、病的になっちゃならんのだけれども、ね、程ほどの私は神様に対するお粗末ご無礼にならないような生き方、あり方というものは、絶対信心をさせて頂く者には必要だという事を一つ分かって頂かなければならんとこう思うのです。私はやはり今日は、真心とは一つだと。それでいて、同じではないという事を皆さんに聞いて頂きました、それを、神様に向かう所の態度と。
それを、私はその、あんまり、ざぁっと平気で、ろくそな心で「ああでもなからなければ、こうでもなかろうか」というその、心の中に練らせて頂く何物も無いといったような事ではです、もうその事にすでに真心が欠けておると、という事を聞いて頂いた訳です。ね。皆さんお家に帰られたら、自分の所の御神前、ね、これでよいだろうかと、お粗末ご無礼があっておるような事はないだろうかと、ね、
こんな事では神様が、不愉快でおありになろうという事は、改めてです、ね、神様に向かう者の姿勢、態度というものをです、ね、もっとろくそなところではない、神様の前に出るには手口ぐらい濯がせて頂いてから御神前に向かわせて頂くその心がです、全ての上にいるのじゃなかいだろうか。それが、練られておらんのではなかろうか。「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と。
そしてそこから出てきた心、いわば自分が思う一番最高の心、その心が真心だと思う。だから信心が段々程度が高くなってくれば、そこは必ず答は変わってこなければならん。真心一心というのは、だから誰でもが使えるのである。どんなに詳しゅう信心がなっておってもです、神様にお供えさせて頂くところの神饌物の取り扱い一つの上にもです。お粗末にならない様に、ご無礼にならない様に、これでよかろうか。
こんな事でよかろうかというようなです、心の使い方が私共の神饌室に一つも現れていないという事は、ね、これではもう真心ではない。真ではない。と。ね。それではおかげが受けられないというような事を申しましたですね。お互いなんでも神経があんまり、とがらせすぎたり致しますとですね、それが病的になります。ね。だから病的になってはそれはすでに、これは本当の事じゃありません。ここんところを一つよく判別して、ね、神様に打ち向こうていかなければならんと思うのですね。
どうぞ。